藤沢文学の魅力(高橋義夫)

 「蝉しぐれ」をぼくは2度読み、そのたびに感動するのだが、正直にいうと、文四郎のような人間に感動していていいのか、感動に身をまかせていいのか、という内心の声が耳の奥できこえる。どうやら、ぼくの内心には一心太助根性というべきか、みなが右へ行くと左を向きたくなる天邪鬼が棲んでいるらしい。  ヨーロッパの教養小説は、一面では故郷から追放された青年の遍歴物語である。青年は反抗し、追放され、自立する。ところが、牧文四郎はどうか。故郷は彼を試練にかけるが、追放せず、かかえこむ。文四郎には苦悩はあるが反抗はない。成長の意味が、どうやら教養小説とはちがうようだ。  終章の「蝉しぐれ」は、冒頭の「朝の蛇」からは30年ほども過ぎ、文四郎が活躍した海坂藩の騒動(第2次海坂藩事件とでもいおうか)から20余年がたっていて、父の名と同じ助左衛門を名乗る文四郎も、いまはお福さまと呼ばれるふくも40歳を越えている。文四郎は間もなく髪をおろすというお福さまの招きをうけて、郊外の屋敷で密会するのだが、この章に漂い流れる空気のしずけさ、おだやかさは、周平作品でなくては感じられない。ここまで長い物語を読んできた読者は、心のうちがしずかでおだやかなもので満たされるのを感じるだろう。  ぼくは若いころ翻訳小説を好んで読んだが、「蝉しぐれ」の文章は、それらとはまるでちがうユニークなものだ。文四郎の苦難と冒険は、調和の世界にたどりつくためのものだった。これを日本的というのは、少しちがうように思える。日本の農村に生きた人々の心の基層が描きだされているというべきではないか。  中年になった2人がしずかに過去を語るとき、無数の先祖たちがまわりで微笑を浮かべながら見まもっている幻影が見えるようだ。